2011年10月30日日曜日

声楽発表会(伴奏)

今年もM先生の発表会で伴奏をさせていただきました。

何度もご一緒させて頂いているお二人&今回が初めての高校生の生徒さんの3名と、計7曲を演奏させていただきました。

今回は、本番で不安が出た演奏だった…というのが率直な感想です。

大きな失敗とか、破綻を来す状態になるようなことは、さすがに無いですが…。

この本番の数日前に、久々にプロティッチ先生のレッスンを受けさせていただいて、自分の音の繊細さが全然足りないと猛反省しました。そこから、伴奏の曲も(ほとんど仕上がりかけていたものを解体して)1からぜんぶ作り直してみたものの…

そういう根本的な作業と、曲を仕上げて形にするという仕上げの段階の作業が、うまく噛み合なかった感じです。

根本的な部分に対する確信のなさが、本番で不安となって出てしまいました。

自分自身、変わり目の時なのかなと思っています。次の段階(というと安易な表現ですが)に行けるか行けないか、習得出来るか出来ないか…という。外部の評価などの“段階”ではなく、あくまで自分自身の音楽の質における話です。

今回のことは後ろ向きの出来事ではけっして無いので、これからも引き続きがんばります。

本番のあと、楽屋で出演者のみなさんと写真を撮ってもらいました。
高校生の子に「今どきのピース」を教えてもらって、みんなでやってみました。ちょっと必死な感じです。(笑)


こちらは真面目。

みなさんおつかれさまでした。ありがとうございました!

2011年10月27日木曜日

プロティッチ先生のレッスン【2011.10.26】

約半年ぶりにプロティッチ先生のレッスンへ行ってきました。
今日はバッハの「イタリア協奏曲」と、ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲(途中まで)」をみていただきました。

レッスンを受けると「あぁ、私の音は『違う』 んだなぁ」と、やっぱり、つくづく、あらためて、思い知らされます。『違う』というのは感覚的で表現が難しいですが、「美しくない音」「この一音を弾くために適さない音」といった感じでしょうか…。

今日、すごく腑に落ちたことは、「このように弾けばこんな風になる」とか「このように手を動かせばこのフレーズが弾ける」というマニュアル(定型?)なんてものは、存在しないのだということ。(今更?って感じですがそこは目をつぶっておいてくださいね…)

つい安易に、知っている技術を新しい音楽に当てはめてどうにかしようとしてしまうのですが(もちろん中には当てはまるものもあるでしょうが)、音楽ってそんな風に、アルバイトのマニュアルのようなものではないのです。

100個のフレーズがあれば、100通りの弾き方があります。

テクニックに音楽をあてがうのではなく、音楽(の中にあるフレーズや音)を美しく奏でるためにテクニックが生まれる。まずはじめに、音が、音楽がそこにあるのだということです。

この半年ほど、手のポジションや体の使い方に意識を集中して練習していたので、形ばかりになってしまって(もちろんそれも大事なのですが)、そもそもなんのためにそれを求めているのか…という根本的な問題が、どこかへ行ってしまっていたように思います。

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今日は午後から声楽家のYさんも合流されました。3人でお食事をして、その後はYさんのレッスン。最後まで聴講させていただきました。

意外かもしれませんが、一流の音楽家さんになると、ピアニストが声楽家のレッスンをなさったりするんですよ。 もう「ピアノのレッスン」や「歌のレッスン」という枠を超えた、「音楽のレッスン」という感じなのです。

それはそれは夢のような時間でした。こんなに素晴しいものがこの世にあるのかというような…。幸せでした。

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ピアノの練習というのは、プロフェッショナルになればなるほど、本当に途方にくれるような細かな練習の積み重ねになってくるように思います。あまりに細かすぎて、昨日より良くなっているのか、変わっていないのか、道を外れて悪くなっているのか、自分では分からなくなることもしばしば。

そのうちに、「毎日こんな細かいことをしていて、いつ先生の音楽に近づくんだろう」→「だいたいいつになったらまともに仕上がるんだろう」→「私なんかがこんなことをしていても無駄なのでは」→「モチベーション下がる」という思考回路に…。

でも今日、プロティッチ先生のレッスンを受けて、やっぱりその幾千幾万の『細かな積み重ね』が繊細な音楽を作るのだと、あらためて感じました。試行錯誤しながら、とにかく積み重ね続けるしかないのですね。

また新たな気持ちでがんばれそうです。充電完了です!

2011年10月24日月曜日

おさんぽ

お仕事も練習も自宅にいることがほとんどなので、運動不足を切実に感じている今日この頃です。体に良くないし、体力も落ちてしまうし、太るし…。

これはいかん!というわけで、先日、近くのコンビニに行くのにすこし遠回りして、おさんぽしてみました。40分くらいかけて近所を歩きました。新しいおうちが建っていたり、いつの間にか道にフェンスが出来ていたり…。街って知らないあいだにどんどん変わっているんですね。

ついつい何度も立ち止まって写真をパシャパシャ…。
おかげでちっとも運動らしい運動になりませんでしたが(笑)気持ちはずいぶんとリフレッシュできました^^

2011年10月21日金曜日

突然の電話

わずか1ヶ月ほどで退会された生徒さんがおられました。
別の教室をやめて転入してこられた生徒さんで、兄妹で来てくださっていました。

あるレッスンの日の当日、レッスン時間の直前になって突然お電話がありました。レッスンの付き添いはいつもお母様でしたが、仕事が忙しいとかで、お会いしたこともないお父様からの突然のお電話。「今日のレッスンからもうピアノをやめさせてもらいます」とのこと。

これまでの経緯がいろいろあるので驚きはしませんでした。
ただ、突然のことなので「ちょっと状況を説明していただけますか」とお願いしたものの、結局くわしい事情はよく分かりませんでした。(色々とつじつまが合わなくて)

もちろんピアノをやめるには様々な事情があると思います。経済的なこと、生活や環境の変化、興味の薄れ、先生との相性、などなど。でも、少なくとも自分が「やりたい」と言った習い事をこんな短期間でやめるという経験を積み重ねてしまって、あの子たちの価値観や感覚はいったいどうなってしまうのだろう…とすごく心配になります。もはや余計なお世話ですが…。

それと、電話一本で(スポーツクラブやエステの予約を解約するような手軽さで)ある期間なにかの教えを受けるという形でお世話になった人の元を去るという感覚は、私にはちょっとよく分かりません。

私自身、現在、ピアノのほかに声楽と英語のレッスンに通っていますが、もし何かの事情でやめる時には、お宅を訪問し、顔と顔を合わせてお話をし、ご挨拶をして失礼すると思いますから… (あくまで私の価値観です)

専門の道に進んだり、趣味として末永く続けたいと願う以外の人にとっては、ピアノというのはひとつの通過点にすぎないのかもしれません。いつかは「終わり」が来て、「子どものころの習い事」以上のなにものにもなれないのかもしれません。(もちろんそうでないことを願ってレッスンしていますが)

だけれども、だからこそ、良い形で気持ちよく、その「終わり」を迎えて欲しいとも思います。何年、何十年か後に思い出した時、そこからまた続きのストーリーを描こうと思えるような、素敵な記憶になるように。

2011年10月15日土曜日

教会での本番(伴奏)

先日はこんなところで演奏してきました。
大阪のとある教会の礼拝堂です。

ご縁があって夏から聖歌隊(この教団の阪神地区の教会員のみなさんで結成されている)の伴奏をさせていただくことになり、はや3回目の本番です。関連のものも含めると正確には4回目。

この日は礼拝と講演会がセットになった催しでした。
最初は聖歌隊の合唱のピアノ伴奏だけの予定でしたが、いろいろあって急遽礼拝のオルガン奏楽も依頼され、大慌てで練習してこの日を迎えました。

礼拝のオルガン奏楽はけっこう好きです。

オルガンの大きなボリュームや減衰しない音、空気そのものを揺れ動かして空間を支配する音、というのは、神さまの絶対的な力を表すのにピッタリだったのだと思います。支配というと恐ろしい気もしますが、同時に「守り」であったり「愛」や「恵み」でもあると思います。

…と、そんなことを色々思いつつオルガンを弾いてきました。(専門じゃないので足ペダルは使えないし、2段鍵盤もイマイチ使いこなせず、不完全なオルガンですが)

礼拝後はいよいよ聖歌隊の演奏。今までの練習の中で一番のとびきり良い演奏だったので、びっくりしてしまいました。私の伴奏も含めた全体の出来として。うれしかったです。

その後は、マザーテレサのもとで働いておられた方の講演会(すごく感動的なお話でした)を聞いたり、参加者全員で手話をしながらマザーテレサの曲を歌ったり(私は伴奏だったけど…) 、素敵で心あたたまる時間を共に過ごさせていただいて、なんだかすごくラッキーでした。

伴奏のお仕事を依頼されなければ、ここに居ることはなかったですから。
色んなご縁に感謝した一日でした。