2012年7月23日月曜日

先生を選ぶということ

これからピアノを始めようとされる方や、何か目的があってピアノを必要とされる方がまず最初にお悩みになるのは、「どの先生に習うか」ということなのでは無いかと思います。

信頼できる先生、相性の良い先生、専門的知識が豊富、優しい、家から近い、お月謝が安い、などなど、目的や状況によって様々なご希望があることでしょう。


でもそんな中で、意外と「小さい頃のピアノなんて、誰に習っても同じなのでは?」「音楽科出身の先生なら誰でも変わらないのでは?」と思っておられる方も多いという話を聞きます。

確かに、もし自分が専門外の分野でなにかを習うとなると、どんな風にどんな基準で先生を選べば良いのか、悩んでしまうとは思います。でも1つ間違いなく希望するのは、自分のレベルがどんなに低くても、お遊びでなくちゃんと全うなことを教えてくれる先生が良いということです。

幼少期の習いごとなのだから、別に専門的にどうこう考えなくても「たのしく」やればいい。技術面の指導は二の次で、とにかく「たのしい」レッスンがいい。など、よくこういう言い方がされます。確かに「たのしい」と思うことは大切ですが、本当のたのしさとはいったい何なのでしょうか。


私は、ピアノの本質的なたのしさとは「弾けるようになる」ことだと思っています。

その場だけの「たのしさ」に流されて(当教室でもそういう種類のたのしさを持つカリキュラムを取り入れてはいますが、その前に)技術面での的確な指導がやり過ごされてしまっては、いつまで経っても正しく弾けるようにはなりません。そうすると、おのずと本質的なたのしさもどんどん遠ざかっていってしまうのです。


導入期にテクニック面での専門的な指導が受けられず、早い段階で(バイエルやブルグミュラーなどまだ初級の段階で)行き詰まり悩む子どもたちが少なくありません。

多くのケースは、手のフォームが完全に崩れています。指先でなく、指の腹(ひどい場合には第二関節の裏側に至る範囲)で鍵盤を押さえつけていたり、拳が陥没し指が伸びきった状態で指を振り回しながら弾いています。

何度もこういったケースに出会いましたが、彼らは一様に真面目です。技術的な指導を受けられない中で、「うまくなりたい」という気持ちが強く熱心に練習してきたからこそ、そのような癖がついてしまいました。


指先が立たずにピアノを弾いている状態とは、人間が膝や足の甲で歩行しているようなものです。膝や足の甲で走ったりジャンプしたりできるでしょうか。早歩きも難しいかもしれません。


残念ながら、このような不十分な指導は少なからずあるようです。(特定の教室を批判したり、暗に他教室を誹謗中傷する意図はありません。世間一般的にという観点で捉えていただけると幸いです)

おそらくどんな分野の習い事でも、「誰に習っても同じ」ということは決してありません。「別にその専門家になるわけじゃないし、趣味のレベルならどこでも同じだろう」ということも決してありません。

立ち上がったばかりの小さな子どもが足の甲や膝で歩いていてジャンプすることも走ることもできずにいたら、「将来陸上選手になるわけじゃ無いから、足の裏で歩いていなくても別に良いか。とりあえず前に進めれば同じだろう。」と思うでしょうか。

「将来ピアニストになるわけでは無いから…」という前置きはとても危険です。指導者にとっても、生徒さんにとっても。

とりとめもなく。自戒も込めて。

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